メガネ手帖

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メガネが綴る日々の出来事、妄想、空想、よしなしごと

「夢を与える」という言葉に対するモヤモヤ

もうほんとタイトルのまんまなんですが、「夢を与える」という台詞を言っている人を見ると、なんかこう、モヤモヤした気持ちになります。

いろんな場面で使われるが、1番多い文脈はアスリートや無謀なチャレンジをする人が「応援してくれている皆さんに夢を与えたい」という形式だろう。

確かに、その頑張る姿を見て感動し、夢や希望を持つ人も沢山いると思うし、素晴らしい偉業だと思う。それは間違いない。でもなんというか、それが目的のように言われるのはなんか違うというか、本末転倒感がある。

まず最初にその人自身の目的があって、それに向かってひたむきに頑張る姿、障害を乗り越える姿が感動を呼び、見ている人が勇気や希望を持つことができる。こういう流れならすごく理解できる。

が、最初から「夢や希望を与えることが目的」となってしまうと、究極は「感動しましたよね?夢や希望を持ちましたよね?!」という押し売りになりかねない。他人が感動したかどうか、がゴールになるので、成否が他人に委ねられていることになるのだ。それはなんか違うと思う。

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それにしてもなんで僕は素直に「素晴らしいな」と思えないのか。たぶん「与える」という言葉が持つ「上から下へ」という印象にだいぶ引っ張られてるんだと思う。持つ者が持たざる者へ行う施し、というある種の上から目線のようなものを感じて、反発心が生まれているのだ。

アスリートは実際にすごいからまだいいが、無謀なチャレンジ系だとさらにモヤモヤする。先日ニュースになった「ヒッチハイクアメリカ横断」の中学生などその典型で、彼も「夢を与えたい」ということを言っていて、もう手段も目的もワケが分からない。

だけど、実際にはそういう「夢や希望を与えたい!」という姿勢で過剰な自意識を振りかざしている人がいたとしても、その姿を見て夢や希望を与えられる人は少なからずいるわけで、そうなるとそれは誰かを救っているという観点で確実に良いことをしている。少なくともここでモヤモヤとか言ってるおっさんよりはよほど生産的だなと思う。

でもなんかモヤモヤする。せめて「夢や希望を感じてもらえたら」くらいのスタンスでやってほしい。そこんとこ頼みますよ、なにかを成し遂げようとしている素晴らしい方々。